東京高等裁判所 昭和60年(う)685号 判決 1986年2月24日
主文
原判決を破棄する。
被告人は無罪。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人中尾昭作成名義の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は検察官近藤太朗作成名義の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。
控訴趣意中事実誤認、法令適用の誤りの主張について
所論は、要するに、本件事故の原因は、もつぱら被告人運転の普通乗用自動車の進行道路が優先道路であるのにかかわらず、右方道路から原判示の交差点に進入してきた一戸石男運転の普通乗用自動車が被告人の進路を妨害した結果生じたものであつて、被告人には交差点進入に際しての安全確認義務違反も速度調節義務違反もないとして、原判決の事実誤認、法令適用の誤りをいうものである。
ところで、原審記録によれば、本件事故現場の交差点は、被告人運転の普通乗用自動車(トヨタカローラ)が進行していた幅員約六・六メートルの東西に走る優先道路(道路標識等による中央線が設けられている道路―道交法三六条二項)と一戸運転の普通乗用自動車(日産プレジデント)が進行してきた幅員約四・四メートルの南北に走る道路(車両は終日南に一方通行でかつ交差点手前には一時停止の道路標識がある。)とが交差し、交差点東側手前の被告人車進行道路の右(北)側端及び交差点北側手前の一戸車進行道路の左(東)側端に沿つていずれも雑草が生い茂り、被告人及び一戸の双方ともわずかに雑草のきれ目からところどころで相手方進行道路を見通すことができるにとどまり、見通しが極めて困難な状況にあつたところ、被告人は時速約四〇キロメートルの速度で本件交差点にさしかかつた際、折から右方道路から進行してきた一戸車のライトを直近に発見したが、急制動を講ずるいとまもなく、本件交差点のほぼ中央付近で自車前部を一戸車の左側助手席ドアに衝突させたうえ、一戸車をして本件交差点南西角の荻原操方ブロック塀に衝突させて一戸に原判示の傷害を負わせたことが認められ、原判決の認定も右の限定においては異なるところがない。
そこで、本件交差点における被告人車及び一戸車につき道交法の定める通行方法についてみると、本件交差点は前示のように左右の見通しがきかない交差点であるとはいえ、被告人としては特段の事情がない限り、徐行義務を負うことはない(道交法四二条一号)のに対し、一戸は一時停止及び徐行義務を負うことはもとより、被告人車の進行を妨害してはならない立場にあつたことが明らかであり(同法三六条二項)、この点もまた原判決の見解と軌を一にする。しかるに、原判決は、本件交差点は交通整理の行われていない、かつ左右の見通しの悪い交差点であつて、とりわけ右方道路から直進車両が一時停止することなく、本件交差点に進入してくることがあることを認識していた被告人としては、これとの衝突を未然に防止するため、相当程度の速度に減速し、右方道路から進入してくる車両の有無、安全を十分に確認しながら進行すべき業務上の注意義務があるのに、時速約四〇キロメートルという制限速度いつぱいの速度で、しかも左方道路の安全に気をとられ、右方道路から進入してくる車両の有無、安全を確認しないで進行したため、本件事故を惹起するに至つたもので、被告人には前記認定の業務上の注意義務を怠つた過失がある、としているので、その当否について検討するに、被告人に右の速度調節義務違反及び安全確認義務違反が認められるのは、被告人が右方道路から一時停止することなく不用意に直進してくる車両のあることを予見し得る特別事情があり、しかも被告人が安全確認義務を尽してさえいれば右方道路から進入してくる車両を事故回避措置の可能な地点において発見し得た場合でなければならない。
そこでまず、右の特別事情が存したか否かについて検討すると、原審記録並びに当審事実取調の結果によれば、被告人は、右方道路からの直進車両が所定の停止線手前では一旦停止せずに左右道路を見通すことができる地点まで進出してくるのを経験したことがあつたというにとどまり、それ以上に被告人車の進路である東西道路を通行する車両の進行を妨害するほど不用意に交差点に進入してくる車両のあることまで知悉していたとする証拠も、ほかに事故発生の危険を予想し得るような具体的事情が存在したとの証拠もないので、優先道路を進行して当該交差点に進入しようとした被告人に対し、一般的に速度調節義務及び安全確認義務を課することはできないというべきである。
そこで、次に、被告人が前方の安全確認を尽せば、一戸車を衝突回避可能な地点で発見し得たかについて検討するに、原判決は、被告人車及び一戸車の本件交差点への進入関係につき、一戸の原審検証時の指示説明、すなわち検証見取図点(交差点の手前約五・一メートル、衝突地点点の手前約九・六メートル)でいつたん停止し、雑草等のきれ目から左方道路(被告人車進行道路)を確認したところ、進行車両が発見されなかつたので発進し、時速五ないし一〇キロメートルで進行しながら点(交差点の手前約一・六メートル、点の手前約六・一メートル)で左斜め前方約三九メートルの点(点の手前約三七・六メートル)に被告人車のライトを発見したが、停車しているものと誤信し、そのままの速度で進行して本件交差点に進入し、点で被告人車と衝突した旨の指示説明は十分信用するに足るとして右のとおりの事実を認定しているところからすれば、これを前提として作成された当審取調の昭和六〇年八月八日付司法警察員作成の実況見分調書が、被告人は一戸車が本件交差点に進出したのを被告人車が点の手前少なくとも三二メートルの地点において発見し得たとしているのと同様に、被告人に安全確認義務違反がなければ、事故回避の可能な地点において被告人が一戸車を発見し得たと判断したものと解される。
しかしながら、原判決の右認定の基礎となつた一戸の指示説明を含む原審証言には、次のような疑問点があつて、にわかに措信し難いところである。すなわち、
① まず夜間走行中の自動車運転者が、相手車のライトによつてその位置を正確に特定して認識することはきわめて困難であつて、一戸の点で点に被告人車を見たとの証言が相互の車両間の正確な位置に符合しているとすることには疑問がある。
②さらに、当審証人富家卓也の証言及び同人作成の鑑定書によれば、一戸は点でも一時停止しなかつたばかりかその後の衝突地点までの一戸車の速度は毎時二五キロメートルを下回ることはなかつたものと認められ、したがつて、被告人車の時速が約四〇キロメートル、一戸車の時速が二五キロメートルを下回つていなかつたとの前示認定をもとに、被告人が一戸車を発見することの可能な地点における相互の位置関係を考察すれば、一戸車がほぼ前示の地点(一戸車がこの地点に達するまでは被告人の側から一戸車を発見することは不可能である。)すなわち、衝突地点まで約六メートルの地点で、そのときの被告人車の位置は衝突地点の前方一〇メートル以内であつたというほかはない。
結局、一戸が点で点に被告人車を発見し、被告人車と衝突した当時の一戸車の時速を五ないし一〇キロメートルと認定した原判決は、事実を誤認したものであり、当裁判所の右認定による被告人車と一戸車の相互の位置関係からすれば、被告人において一戸車が本件交差点に進出してくるのを発見することの可能な地点で直ちに急制動等の措置を講じたとしても、衝突は不可避であつたと認められるので、被告人には安全確認義務違反の過失もないものといわなければならない。
したがつて、本件事故は、もつぱら一戸車が優先道路を進行する被告人車の進路を妨害したがために生じたものと認めるほかはないのであつて、被告人に原判示の注意義務違反があるとした原判決には、証拠の評価、判断を誤つた結果過失責任についての法律的判断の基礎となる事実を誤認し、無罪たるべき被告人に対し、業務上過失傷害の成立を認めた点において事実誤認及び法令適用の誤りがあり、右の誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかである。論旨は理由がある。
よつて、その余の控訴趣意(量刑不当の主張)について判断するまでもなく、本件控訴は理由があるので刑訴法三九七条一項、三八二条、三八〇条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書に則り当裁判所において更に次のとおり判決する。
本件公訴事実は、「被告人は、自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和五七年一〇月一四日午後八時三三分ころ、普通乗用自動車を運転し、横浜市港北区新羽町一七八八番地先の交通整理の行なわれていない交差点を太尾町方面から大熊町方面に向かい直進するにあたり、同交差点は左右の見とおしが悪く、交差道路から車両等が不用意に進入することがあることを被告人において認識していたのであるから、適宜速度を調節し、見とおしの悪い右方道路から進入する車両の有無・安全を確認して進行すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、右方道路から進入する車両の有無・安全を確認することなく時速約四〇キロメートルで進行した過失により、自車前部を右方道路から進行してきた一戸石男(当四九年)運転の普通乗用自動車に衝突させ、さらに同車を右方に暴走させて同所ブロック塀に衝突させ、よつて同人に加療約一年二か月を要する頸髄損傷の傷害を負わせたものである。」というのであるが、前示のとおり犯罪の証明がないことに帰するので刑訴法三三六条により被告人に対し無罪の言渡をすることとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官高木典雄 裁判官小林 充 裁判官奥田 保)